学ぶ理由はだれに教えてもらう?

 岩手大学教育学部で小学生、中学生、大学生対象に行った算数・数学についてのアンケートの結果に、数学に対する疑問や不思議なこと、納得がいかないことの自由記述の項目では、中学生が「将来絶対に役に立たない数学を今どうして勉強しなければならないのか」、大学生でも「そもそも数学を学ばなければならない理由がわからない。社会に出て何に生かせるのか。」といった回答がたくさんあったそうです。これに対して学校教育の研究は、これまでの実践の反省がほとんどなく、「子どもにどのように思考させ」るか、という結局教師が全部教えてやる方式から抜け出す姿勢がみられないのが驚きでした。また、小学生から大学生までが、自分で答えを探す姿勢になく、「誰か教えてくれるのが当然」とした回答をしていることにも改めて驚き、私たちの学びのあり方を考えさせられます。


 「おつりの計算ができないと困るから、計算は必要だ」くらいの必要論は、分野がとても限定されて、一人一人が自分の生活の質をどう考えているかがまるで考慮されていません。学ぶ意義は、「自分にとっての必要性」と大きく関わると思います。


学び塾の小学2年生の子が、「明日午前中ひまだなあ」と言ったので、私が「以前につくったことがあるスウィートポテトをつくってもってきてくれたらいいな。」と言うと、「うん、いいよ。作ってくる。」と言ってその日は帰りました。次の日は、午後からクラスがあったのですが、その子は来ませんでした。理由は「スウィートポテトをつくっていないから」でした。泣きながら「行かないじゃなくて、行けないの」と言っていたようです。スウィートポテトを作ることができなくても人間生きていけます。でも、作ることができたら新しい世界が広がります。この子にとって、スウィートポテトをつくることは、自分にとって必要なことであり、あこがれでもあったと言えると思います。これは、他の分野にも言えることではないでしょうか。スウィートポテトが作れなかったから、クラスも休んでしまう判断はまた別の問題があると思いますが、これだけのこだわりをもつ情熱に、私は教育の可能性を感じます。子どもにどうやらせるか、よりも、子どもがどんな興味やこだわりをもち、どんな方法でそれを成就しようとするのかといった発想そのものを大人は目にみえる結果にまどわされず、よくみる必要があると思いました。大人自身が目の前の結果に振り回されないためにも。(黒澤和美)

 

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このページは、mago3が2009年11月17日 19:22に書いたブログ記事です。

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