意欲のなせる業

学び塾に通う小学2年生の姿です。算数のかけ算について自分の疑問を出して、教科書等で探しながら解決法を考える活動を行っていました。「九九はわかるけど、わり算がわかるようになりたい。かけ算とわり算が反対(の関係)というのはわかる。でもあまりがあるときはどうするのか。反対にできない。」時間があと20分しかなかったので、「それは、次回の課題にしようか」と言うと、体をむずむずさせて「今やってみていい?」とすぐに3年生の教科書をもってきて、わり算のページを探しだしました。その素早さといったら。すぐに「あまりのあるわり算」の項を出して、問題をみつけ、やりはじめます。÷の記号も式も初めて使用するのにとまどいながらもこれでいいかな、と予想しながら進みます。答えが出ても安心せず、「これでいいかどうかがわからない」というので、「たしかめ算をやってみたら」と提案しました。それが乗っているページを探し、あまりの分を足すことで割られる数になることを理解し、式の表し方までおそれながらもやっていきます。その後、他の練習問題を自分で選び習熟までやりました。今度は自信をもって「みて」と持ってきました。この間の所要時間は約15分。少なくとも小学校で行う授業の5時間分くらいの内容です。意欲の力がこれほどすごいとは。と驚かされました。細切れの段階を少しずつ詰め込んでいく「親切で丁寧」といわれる学習スタイルを根本的に考え直さなければならないのではないでしょうか。いくら大人が一生懸命に準備して分かりやすく教えてあげようとしても、皮肉なことに子どもはどんどんやる気や自分で考える面白みを失っていきます。

 

もちろん自然に子どもがそうなったわけではありません。2カ月前はわからないことがあると「教えて」という態度でした。教えてわかればそれでよい。結果だけを気にする態度です。「自分で考えて」「教科書で探してみたら」というと、「じゃあ、いい」とあきらめることもよくありました。学校で学習したことの枠を超えていこうという姿勢はみられませんでした。

大人は、自分で考えさせるといっても、何らかの手順やヒントを与えて、正解までの道筋を用意して子どもにたどらせようとしがちですし、またそれが教育的だと思うときがよくあります。また、自分で考えさせる=放っておくととらえて、何もしないことだとも。すると結果が出ないので、やはり教えてやるしかない、という結論にいたることが多いのではないでしょうか。しかし、上記の例は、それがかえって子どもが飛躍する機会を奪ってしまう、また、子どもが成長する過程がこれまでの大人の考えの範疇を超えているということ、子どもが自ら考える場を保障することが学力向上をはじめ、どれだけの成果につながるか、を示していると思います。その力を引き出すのは、単なる大人の漠然とした励ましではなく、子どもがなぜそう考えるのかについての子どもの側から分析に基づいた、自分で考え、判断することへの評価なのではないかと思うのです。「ほめてのばす」のは一般論にすぎず、実際は、その子の実態に合わせ、課題とセットでどこをどうほめるか、が問題になります。

そのためには、子どもの考え方について大人はもっと知る姿勢が必要であり、だから大人も勉強しなければならない、孫三の大人クラスの意義がここにあるように思います。(文責 黒澤和美)

学ぶ理由はだれに教えてもらう?

 岩手大学教育学部で小学生、中学生、大学生対象に行った算数・数学についてのアンケートの結果に、数学に対する疑問や不思議なこと、納得がいかないことの自由記述の項目では、中学生が「将来絶対に役に立たない数学を今どうして勉強しなければならないのか」、大学生でも「そもそも数学を学ばなければならない理由がわからない。社会に出て何に生かせるのか。」といった回答がたくさんあったそうです。これに対して学校教育の研究は、これまでの実践の反省がほとんどなく、「子どもにどのように思考させ」るか、という結局教師が全部教えてやる方式から抜け出す姿勢がみられないのが驚きでした。また、小学生から大学生までが、自分で答えを探す姿勢になく、「誰か教えてくれるのが当然」とした回答をしていることにも改めて驚き、私たちの学びのあり方を考えさせられます。


 「おつりの計算ができないと困るから、計算は必要だ」くらいの必要論は、分野がとても限定されて、一人一人が自分の生活の質をどう考えているかがまるで考慮されていません。学ぶ意義は、「自分にとっての必要性」と大きく関わると思います。


学び塾の小学2年生の子が、「明日午前中ひまだなあ」と言ったので、私が「以前につくったことがあるスウィートポテトをつくってもってきてくれたらいいな。」と言うと、「うん、いいよ。作ってくる。」と言ってその日は帰りました。次の日は、午後からクラスがあったのですが、その子は来ませんでした。理由は「スウィートポテトをつくっていないから」でした。泣きながら「行かないじゃなくて、行けないの」と言っていたようです。スウィートポテトを作ることができなくても人間生きていけます。でも、作ることができたら新しい世界が広がります。この子にとって、スウィートポテトをつくることは、自分にとって必要なことであり、あこがれでもあったと言えると思います。これは、他の分野にも言えることではないでしょうか。スウィートポテトが作れなかったから、クラスも休んでしまう判断はまた別の問題があると思いますが、これだけのこだわりをもつ情熱に、私は教育の可能性を感じます。子どもにどうやらせるか、よりも、子どもがどんな興味やこだわりをもち、どんな方法でそれを成就しようとするのかといった発想そのものを大人は目にみえる結果にまどわされず、よくみる必要があると思いました。大人自身が目の前の結果に振り回されないためにも。(黒澤和美)

 

自分で選ぶ、選択を問う

 小学生クラス「学び塾」では活動の一つとして野外活動の計画作りをしています。

 いざ始めてみると、時間、どこでするのか、準備物は何かが記されない姿が出てきました。別の場面では、おやつの片付けでお盆の上の茶碗を乗せたとたんに遊び始める姿もありました。子ども自身の考えている自分の範囲・事柄の全体は、こうも明確に現れてきます。

 普段は学校や家庭でも大人が計画・下調べ・調整・手配などをすることは多いと思いますが、孫三では広い範囲に目を向けることを大切にしているので、子どもにも全体を視野に入れて計画することを求めています。全体とは活動や事柄それ自体にとどまらず、今生きていることそのものであり、実現していないこと希望やあこがれも含めてのものであるはずです。

 いま、子どもはそこで衝突に出会い始めています。複数のものを扱い始めたことは大きな進展です。と同時に、なぜ「始めている」なのかというと、衝突が見えた直後に大人に決定を求めることが多いからです。そのときに「どっちでもいい」ようなことなら元から取り組む意義はないのでしょう。もしあきらめが支配しているのだとすればそれは恐ろしいことです。

  決めかねる、選びかねるからこそ新しい価値に出会える学びが貴重になるのです。

(文責:藤原新)



  

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